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広報部コラム『主観を疑う必要性』土田英生(MONO代表)

私は基本的にはエンターテイメントな舞台作品を創ることを心がけているつもりだ。だから演出をしている時に気にしているのは「観客からどう受け取られるのか」という点だ。この台詞の言い方で伝わるのか、この動きを面白いと感じるのか、とにかく様々な部分において観客からの反応を想像して稽古を進めていく。

この行為はとても曖昧だ。一口に観客といっても感覚や経験、知識のレベルなどは千差万別でり、一つではない。だからあくまでも自分が勝手に想定する観客像を対象にするしかない。そのイメージが多くの人たちとずれていれば空回りするだけだ。だからこそ理性と知性を伴った想像力が必要となる。自分の見ている世界は本当に正しいのか、他者には違って見えているのではないか、それを判断しながらバランスを取る。

 ただ今回書こうと思っているのは創作のことではない。舞台芸術を創る上での環境問題のことだ。

稽古場での演出家によるパワーハラスメントなどが問題になる。顕在化した様々な事案の中で、時には弁護の余地が皆無なものもあり、これは問題外だ。私が書きたいのはもっと微妙なラインというか、判断が難しいケースの話だ。演出家も人間だ。稽古をしていれば熱くもなるし、中には腹の立つ俳優やスタッフもいるかもしれない。そして時には(そんなつもりはなく)発した言葉や見せた態度が問題にされることもある。

 私は別の組織でハラスメントの担当をしていたことがあるが、問題がこじれるのは往々にしてこういう場合だ。すぐに認めて謝ればそれで済むことも多いのだ。しかし、例えば告発された演出家は自分の行いを否定する。そこから問題は大きくなり収拾がつかなくなっていく。これは推測になるが、その演出家には言い分があるのだと思う。言い方がキツくなったとすれば、そうなる原因があり、訴えられた演出家にとってはちょっと待ってくれという気分になるのかもしれない。

しかし、ここで自分の主観を疑う想像力があるのかどうかが問われるのだと思う。どれだけ言い分があり、正しいと思おうが、他者から見てアウトだと判断された事実だけは受け入れるしかない。そしてそのことについては認めて反省すべきなのだ。ちょっと大きな声を出しただけなのに、などと思うかもしれないが、告発されるということはそれ以外でも抑圧を強いていたのかもしれない。きちんとしている人が少し熱くなったからといって、ハラスメントだと判断されることはない。普段から他者に悪い印象を与えていたことを受け入れるしかないのだ。愛情があり余って、などと言い訳する人もいるが、相手にそれが好意的に伝わっていなければただの迷惑でしかない。

 エンターテイメントの創作と同じように、演出家は自らが他者の目にどう映っているのかを想像する必要がある。そして時には自分の主観を疑ってみる必要があると思う。共にいる人たちのことも想像できない演出家には観客に受け入れられる作品など創れない……はずだ。